■南々井梢さん、応援コメント

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親以外の誰しもが潜在的にあなたの味方
劇作家/ライター 南々井梢


 「手紙」というのは、皮肉なもので、心を込めれば込めるほど、ありきたりで面白みのない文章になってしまう。
 感謝や愛に満ちたものならなおさら。
 ほんのりとした謝罪や、これからもよろしく、の要素が入ると、またことさらに。

 多分私は、結婚式の披露宴で読まれる、新婦から両親に向けての手紙のことをイメージして言っている。

「愛情込めて育ててくれてありがとう。
 反抗期はつらく当たってごめんね。
 いつかあなたたちのような親になりたい。
 私は幸せになります。
 これからも見守っていてね」

 それは披露宴での定番のクライマックスシーン。
 声を詰まらせる花嫁、ハンカチで涙を拭うご両親、会場からはすすり泣きが漏れて……。
 ありふれた、あの幸せな風景。

 ひねくれ者の私は「なんだかなあ」と思う。
 まず、手紙を多くの人の前で読む意義がわからない。手紙って、すごく私的なやりとりでしょう。
 多くの人に聞かせるために書いている時点で、そんなのいわゆる手紙じゃないって。

 でも、そんな私は、ある日衝撃的な「手紙」と出会った。
 それが「日本一醜い親への手紙」だ。

 ああ、これは……。
 言葉を失った。
 親へ直接伝えるすべのないその苦しい想いを、世間に向かって叫ぶこと。
 決して相手に届かなかったとしても、それでもれっきとした「手紙」だと、私は思った。
 
 そこには親への感謝や温かい思い出は一切語られていない。
 生々しい虐待の現実。
 それによって受けた心と体の傷が赤裸々に語られていた。

 私は幸い、親による虐待を受けたことがない。
 完璧な両親ではないにせよ、殴られたことも手酷く放置されたこともない。
 協調性がまるでなく、自由に自分勝手にしか生きられない私を、親なりに懸命に受け入れようとしてくれたことを、とても感謝している。
 だからこの本を読んでも、「かわいそう」「ひどい」「信じられない」「どうしてこんな……」と、思う。
 それは、間抜けでとんちんかんな感想だろうか。

 まるで戦争体験談を読んで読書感想文を書けと言われたときのような貧相な言葉しか浮かばず、自分でげんなりする。
 そんな、ともすればノーテンキで無責任なことしか言えない私に、「梢ちゃん。その感想で正解なんだよ」と言ってくれたのが、この本の編集者、今一生さんだ。

 ここまでぐっと胸に突き刺さる本になっているのは、それが憎むべき親への手紙という形式だから。虐待体験談より、ずっと生々しいだろう。

 「日本一醜い“親への手紙”」だとするとタイトルはショッキングだ。
 でも、これは「“日本一醜い親”への手紙」なんだなと思う。
 だから、手紙を書いているあなたは、醜くない。絶対に。
 醜いのは、親だ。親だからって美しいわけではない。
 愛さなくて良い。

 私の言葉は頼りないけれど、それだけはしっかり伝えたい。悲しいことかもしれないけれど、親に愛されなくたって良いのだ。
 それは人が幸せになるための条件では決してない。

 私は、この本を応援している。
 人は誰しも「幸せになる」「愛し愛される」「楽しむ」とい無条件の権利があると思って私は生きている。
 親に愛されなかったからと言って、権利を放棄する必要なんてない。
 この本に手紙を寄稿することで手にする1万円が、権利の証明書になるかもしれない。その証明書を親からもらわなくてはいけないという決まりはないのだから。

 私は「新編 日本一醜い親への手紙」を応援する。
 ……するけれど、「新・新編」が、また「新・新・新編」が、出版されることを望まない。
 「虐待なんてなくなればいいのに」と夢のような理想を堂々と語るのは勇気がいるけれど、それを望まない人なんていないのだ。

 つまり、親以外の誰しもが潜在的にあなたの味方だということ。
 私も、その一人だということを、ここに表明しようと思う。

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